HISTORY OF KANEMATSU
130年以上続くベンチャースピリット
1889年〜
貿易商権を日本人の手に
1889年(明治22年)。幕末に交わした列強諸国との不平等条約解消に向け政府が外交に尽力している頃、実業界では貿易における日本と諸外国との関係を変えようとこころざし、行動を起こした人物がいた。名は、兼松房治郎。兼松の創業者である。
当時、すでに関西実業界でリーダー的存在として幅広く活躍していた兼松房治郎は、ある強い思いを抱いていた。
「日本の国力の振興は貿易を頼みとするべきである。しかるに現状はその9割が外国商館に独占されている。貿易商権を日本人自らが握らねば国の発展はない」
房治郎が注目したのはオーストラリアとの羊毛貿易だった。欧米文化が普及する中、毛織物需要が伸びているにも関わらず、日本人が直接海外から羊毛を輸入する事例はまだなかったからである。房治郎は初めての日本人の手による羊毛直輸入に、私財を投じ自ら飛び込んだ。44歳にしての、新たな事業創造への挑戦であった。
「貿易商権を日本人の手に」との理想を掲げ、房治郎は独力で「豪州貿易兼松房治郎商店」を開業。翌年にはオーストラリア・シドニーに支店を開設し、我が国初の日豪直接貿易を成し遂げた。しかし、当時、財界友人の多くはこの事業の先行きを危ぶみ、「兼松君狂せり」と憂う者さえあったという。実業家としての基盤と名誉をかけた房治郎の行動が、いかに当時の常識を超えたものだったかを物語るエピソードである。
その後、大恐慌など多くの困難にも直面しながらも「何としても日豪貿易の火を絶やしてはならない」と奔走した房治郎。その熱意は周囲を動かし、兼松商店は事業を軌道に乗せていく。やがて、日豪貿易は日本の羊毛輸入の実に5割近くを担うまでに成長したのである。こうして、兼松房治郎は「日豪貿易のパイオニア」となった。
1945年〜
「貿易商社」から「総合商社」へ
第二次世界大戦によって荒廃した日本の経済。その復興に大きな役割を果たすことが期待されたのも、やはり貿易であった。天然資源の乏しい日本にとって、生産技術の導入や海外資源の獲得も、工業製品の輸出で稼ぎ出す外貨がなくてはかなわないことであった。そうした中で、兼松は1949年に社員の海外渡航を再開。そして51年には日本の商社として、戦後初めてニューヨークに現地法人を設立する。以降、ブラジル、西ドイツ、タイと、1960年代にかけて着実に海外展開を図っていった。
1967年、兼松は、1891年北川与平により創業された、いわゆる「関西五綿」の一つである「江商」と合併、兼松江商株式会社として新たな発展の時代に入る。その後、戦後の日本経済の高度成長および産業構造の転換に対応して、繊維主体から脱皮。海外現地法人・関係会社の新設・増強といった企業基盤の強化、取扱商品の多様化など、繊維や石炭の「貿易商社」から「総合商社」へと地位を着実に固めていった。
1960年代以降、「商社斜陽論」「商社冬の時代」という言葉に象徴されるように、兼松の発展の歴史も順風満帆なものではなかった。しかし、こうした時代への変化による危機は、商社業界全体をより柔軟にアグレッシブに変化させる契機ともなったのである。兼松はこの時期に東京に本社機能を移転し、東証一部に上場を果たすなど、新しい体制づくりに注力していた。
1990年〜
苦難の時代と「兼松モデル」と呼ばれた復活
1980年代後半に訪れた東西冷戦の終焉後、世界は「情報化」と「グローバリゼーション」をキーワードに大きく変化し始める。一方で日本ではバブルが崩壊。以降、日本経済は長期にわたって低迷を続け「失われた20年」と言われる時代を迎える。1990年、兼松江商株式会社から兼松株式会社に社名を変更し、東京本社を現在の芝浦シーバンスに移転した兼松も業績が伸び悩み、思うような収益が上がらない苦しい時代を経験する。
1999年、いまだ日本経済が迷走を続ける中、兼松は収益力の向上および財務体質の強化を柱とした『構造改革』を実施。兼松の強みが発揮できる得意分野の電子・IT、食品・食糧、鉄鋼・プラント、環境・素材の分野へ経営資源を集中させた。それが実を結び、強固な経営基盤の確立と、収益性の高い営業基盤の拡大に繋がり、業績の回復へと繋がっていく。やがて企業経営改革の成功例として「兼松モデル」と称されるほどの復活を遂げたのである。
2015年〜
future 135 未来に向けた兼松の挑戦
兼松グループは、創業130周年を迎える2019年までに達成すべき中期ビジョン「VISION-130」を2014年に策定した。これは更なる成長シナリオとして5年のスパンで目指すべき姿を定めたものだ。商社の原点、兼松の基本理念に立ち返り、経営基盤の充実を図りつつ、取引先との共生・発展による収益基盤の拡大を目指していこうというのがその意図するところである。そして、攻めの姿勢で兼松グループが強みとする事業領域を深化させ、さらに新規事業分野にも果敢に挑戦していく「事業創造集団」を目指していくことを改めて誓った。
そして、その目標は5年を要すことなく2018年に1年前倒しで達成となり、今後のさらなる成長戦略がfuture 135として新たに策定された。これは、創業135周年にあたる2024年までに達成すべき、目標やあるべき姿を明文化した兼松の新たな中期ビジョンである。
かつて房治郎が遠く豪州へ渡り、初めて日本人による日豪貿易の道を切り拓いたように、今、兼松にも開拓者としての気概を忘れず、時代を先取りして新たなビジネスを創造している社員が大勢いる。そうした精神、実践力こそが兼松のDNAである。伝統的開拓者精神を持つ「事業創造集団」として、兼松は新たなビジョンのもと、次の時代に向けたあくなき挑戦を続けていく。
用語解説
兼松 房治郎(かねまつ ふさじろう)
1845年、大阪に生まれる。幕末の混乱のなか、武士ではなく商人として身を立てることを決意。28歳で三井組銀行部(現三井住友銀行)大阪分店に入店。丁稚同様から身を立てた。その後三井を退社し、1884年、大阪商船(現商船三井)の創設に参加し取締役となる。さらに1887年には大阪日報(翌年、大阪毎日新聞に改題)を買収。房治郎の生き方には、“起業家精神”や“日本の産業のために尽くす”という一貫した思想が貫かれていた。
房治郎の言葉
「豪州貿易のパイオニア」と称される房治郎の教えは、現在の経営理念に受け継がれ、今もなお兼松の社員のDNAとなっている。その一部を紹介する。
「わが国の福利を増進するの分子を播種栽培す」
「豪州貿易兼松房治郎商店」(現兼松)を創業した時の決意の言葉。明治時代の日本人にとって、「わが国の福利」とは経済を発展させるための共通した社会理念。豪州貿易によって「わが国の福利」を増大させるため、創業後、房治郎は8回も豪州に渡航するなど、心血を注いで事業の発展に尽力した。
「お得意大明神」
取引先を大切に―という精神をたたき込んだ、房治郎の口癖。英語に置き換えると、"Customers are always right"。商売、ビジネスをしていく上で顧客ほど有り難いものはないとの意。
「勤労貸勘定主義」
本来、労働と報酬は貸借対照表の「借方」と「貸方」のようにバランスがとれているのが正しい姿かもしれない。しかし、収入にこだわりなく、努力を出し惜しみせず、むしろ努力超過で働こうというのが房治郎の信条だった。
「もうけは商売のカス」
明治の実業家には金儲けが自己目的ではなく事業には事業の理想があり、収益は副次的産物という思想が培われていた。房治郎もまた、「もうかりさえすれば何をしても良い、という考えを起こすな」という金銭を超えた、企業の社会的責任につながるビジネス観を持っていた。
一橋大学『兼松講堂』と神戸大学『兼松記念館』
房治郎の没後、兼松は社会貢献事業として、一橋大学(旧東京商科大学)に『兼松講堂』(1927年)を、そして神戸大学(旧神戸商業大学)に『兼松記念館』(1934年)を寄贈している。東西を代表する商業大学への貢献は、「貿易によって国家の繁栄に寄与せん」とした房治郎の遺訓によるものである。また、オーストラリアのシドニー病院には『兼松病理学研究所』が寄贈されている。「社会の発展に資する企業たらん」とする房治郎の遺志は、脈々と受け継がれている。
兼松の海外展開
日豪貿易を目的として創業した兼松は、その翌年である1890年に最初の海外拠点となるシドニー支店を開設した。その後1936年には米国に進出すると共に、その翌年にはニュージーランドにも現地法人を設立した。第二次世界大戦によって、一時、対戦国との貿易の中断を余儀なくされながらも、1951年に戦後の日本商社として初めてニューヨークに現地法人を設立する一方、南米・ブラジルへの進出も果たした。その後、戦後復興期を通じてヨーロッパ、中東、アジア各国へと進出し、現在では海外36拠点を構えるに至っている。
北川与平と江商
江商は、近江出身の北川与平が輸入綿糸の取り扱いを目的として、1891年に神奈川県横浜市に創業した北川商店を前身とする繊維商社。1967年に兼松と合併し兼松江商となる。兼松の略称である「KG」は(KANEMATSU GOSHO)の名残。
「商社斜陽論」「商社冬の時代」
「商社斜陽論」は60年代にメーカーが独自の海外販売網を持つことで問屋排除が進むのではとの危惧から生まれた言葉。「商社冬の時代」は80年代に原料品市場の停滞や重厚長大から軽薄短小の時代への対応の遅れなどにより、商社の低利益が露わになったことからそう言われた。
芝浦シーバンス
兼松本社が入居する東京都港区芝浦の複合ビル。シーバンスN館、シーバンスS館と呼ばれる地上24階、地下2階から成るツインビルとその間に「シーバンス・ア・モール」と呼ばれるアトリウムで形成されている。運河沿いに立つガラス張りのビルは、開放感に溢れた意匠である。
future 135
創業135年を迎える2024年に向けた定量目標や重要施策などを明文化した経営計画。
詳しくはfuture 135を参照
JPタワー
2022年11月に東京本社を芝浦のシーバンスから丸の内のJPタワーに移転。東京駅直結であり利便性が良いだけではなくオフィス機能も充実させ働き方改革と従業員の満足度・生産性の向上を図る。新たな成長ステージへ。